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「いわさき、走れ!!」稲田の声でバネのように駆け出した。焼き鳥を求める行列が長くなるってくると、鶏の串が底をつきだした。畜産研究室の冷蔵庫に間借りしておいた鶏串をとりに走る。学園祭にワンゲル同好会が企画した『焼き鳥屋』は思いがけず人気を呼んだ。
校舎の前庭に作った仮設テントの下で焼き鳥用のコンロ2つにプロパンガス、テーブル2つという用具も限られた中で焼き上がった串を売りさばいていく。白焼きに塩コショウする者、たれで焼く者、レジ係、裏方、打ち合わせもほとんどせず役割分担も決めていないのを見て稲田がてきぱき仕切りだした。そんな彼の姿を見たことはなかった。農学部の実習では私の方がみんなを仕切っていたし、稲田は愚痴もこぼさず言いなりになっていていた。が、学園祭の3日間、立場が逆転したことを私は不思議と面白く感じていた。
結局3日分の串を2日で売り切り、串を追加した。隣のテニスクラブのギャル集団が売っていた『焼きそば』より売れた。
日本の祭りと屋台は切り離すことはできない。各地の神社も祭りの日には参道両脇には屋台がひしめき、その軒下を行きかう大人も子供も心が躍る。綿菓子、焼きそば、ホットドック(串刺しソーセージに衣につけて揚げたもの)、集まった親戚と夕食を楽しんだ後でも子供たちは風船や金魚と一緒にそれらをねだる。素材の質など期待もできない上に立ち食いと足りないものだらけなのに口も心も大きく満たされる。
日本の侍社会が繁栄を極めた1600年代以降の徳川の時代、江戸、現在の東京には労働者として特に男たちが集まった。家族を田舎に残してきた彼らの食事はもっぱら路上の屋台ですまされた。手軽でうまい一品料理をかき込んでから家路につく。寿司、てんぷら、そば、うどんも焼き鳥もこうして売られた。日本の屋台文化はこんなところから始まった。
今も、東京・新橋のガード下などいくつか屋台の集まるエリアがあり、仕事帰りのサラリーマンが仲間同士で焼き鳥やラーメンを口にしているのを目にする。路上に置かれた長椅子に腰を下ろし、なんとなく区切られた区切られていないような空間で仲間と肩を並べて同じものを口にすることで生まれる連帯感には形容しがたい温かみがある。
夫、クラウディオも日本の土を生まれて初めて踏んだ日、最初に目にしたのは秋祭りで賑わう小さな神社で、やっぱり屋台の虜になった。特にコロンと丸く焼いた『たこ焼き』に。外側はカリカリとして中は柔らかく、ネギ、ショウガ、ソース、青のりなど様々な味が球形に収まり、最後に大粒の茹蛸の一切れが歯にあたると驚きに言葉を失った。私が『あなたのその大きな頭は蛸のそれに似てる』とからかった為か、彼は旅の思い出に鋳物のたこ焼き器を買うとそれをしっかり抱いて帰国した。
学園祭の3日間でワンゲル同好会は約2000ユーロの純益を生み、翌年の活動費を後輩に残すことができた上、残りで冷えたビールを買ってきてみんなで乾杯できた。缶ビールを手に稲田が私の隣にくると私の肩をどんっと叩き笑った。その翌年の春、卒業を迎えた私たちはそれぞれ社会に巣立っていった。
パオロ・マッソブリオが主催する食のイベント『ゴロザリア』で生産者と言葉を交わしたり、内部に設けられたストリート・フード村に満ちるあらゆる匂いに胃を刺激されると日本の屋台や学園祭のことが頭に浮かぶ。出展者と一緒にマッソブリオの若いスタッフたちが立ち働く姿、マッソブリオやマルコ・ガッティの子供のように喜ぶ顔、他とちょっと違うゴロザリアのお祭りの雰囲気にちょっと羨ましさを感じた。